1年近く前だろうか、世界同時不況の余波で主に製造業の「派遣切り」が続出し派遣村が開設された少し後、同年代のルポライター横田由美子氏が産経新聞のコラム「断」にて「不幸に甘える若者たち」というタイトルの寄稿をしたことがある。
その内容は、大まかに「厳しい不況により不遇な立場に置かれている若者を中心とした人々には同情したい。しかし、今の自分の不幸や不遇をすべて世の中のせいだとする向きは、甘えと断じざるを得ない」といったものだった。
筆者も数年にわたり、発達障害などの背景とともにニートやひきこもり現象の取材や付随する教育や労働問題に関係してきた立場だが、率直に言って横田氏は良く言ったと感心したものである。
横田氏も、先の寄稿の中で冗談めかして述べてもいるが、これは別段、自分たちがフリーランス・自営業という、自らで自らを保障するしかない立場にあって久しいから、その観点から「何を甘ったれているのか」と言っているわけではない。
社会には必ず「弱者」が存在することはまぎれもない事実であり、また例外なく様々なタイミングで様々な人々がいつそう呼ばれる立場になってもおかしくない面は多分にある。ましてや、かつての価値観や神話が音を立てて崩れ去っている昨今「自分だけは大丈夫で、関係ない」などという発想は身を滅ぼすことも明らかである。よって「弱者」たる概念を自らに引き寄せて想像する力とか、不本意ながらそのポジションに当てはまった人々には、最低限の援助なり保証なりが必要であることは言うまでもない。
問題は「不幸に甘える」という、まさにそのニュアンスである。
上に述べた通り、不幸や不遇は誰しも訪れる可能性のあることで、それに対する想像力は必要であるけれども、その当事者が感じる不遇を克服する気があるかということであって、残念ながら「弱者を笠に着る人々」というのが多くいることが本当の弱者を見えにくくする「厄介さ」を孕んでいることは、これもまた指摘するまでもないことであろう。
筆者が取材する中でも、発達障害という自身の特徴を都合の良い時には「個性」と言い、ではその個性とやらを生かして臆せず社会に順応しようとしたら?と問えば、「社会が自分のような障害を理解してくれないし、すぐパニック症状が出るので働けない」とのたまう人々に出会うことが多々ある。
確かに嘘ではないだろう。社会で例えば発達障害についての認識および理解が広汎になっているかといえばそうではないことは明らかである。だからこそ、記者がその存在を知らしめる必要性を感じているのだ。派生するニートやひきこもり問題も然りである。背景や、本人の落ち度だけではない要素の存在は織り込み済みであるし、見聞きして追い込まれるに至るのも無理はないと感じることも実際に多い。
では、いつまでそのせいにして動かないのか?ということである。
ごく単純化すれば、要するに「不幸や世の中のせい、だから自分は悪くない何とかしてくれ」という理屈は「被害意識の押し売り」にすぎず、そこに能動的な概念や行動は伴わない。「行きすぎた被害者面」は、やがて無意識のうちに自分の不幸だけを強調し他への配慮を忘れた言動に走る「消極的加害者」に変質することを肝に銘じておかねばならない。
「派遣村」の湯浅誠氏の活動は敬意を評するものだが、「貧困ビジネス」と揶揄される背景には、「弱者を売り物にして、弱者というポジションに甘えて主体的に動こうとしない」「都合が悪くなると弱者に逃げ込む」といった残念な人々が一定数存在する事実が横たわっているからであり、それらへの指摘もまた率直になされて然るべきである。
と、こうした指摘をするものを「弱者に冷たい保守」などと括る向きも一部にあるが、失笑ものである。公的私的を問わずさまざまな弱者たる状況をサポートする機関の存在を否定するのではなく、それを受ける側がなるべく早く自分の力で歩くべく、その一時的な手助けと捉えているかどうか、つまりは手を借りる経緯や理由を含め、そこに「主体性を伴っているか」という一点の有無に尽きる。
当該問題を追う記者のひとりとして、発達障害や疾患といった背景の実際を紹介しつつ、ニートひきこもり、暴力などの事象や派生する労働や教育の諸問題を世に伝える立場にはあるが、そうしたフィールドに甘え食ってかかる人々の無用な「味方」をするつもりは毛頭ない。あしからず、そこはご了承頂きたい。
その内容は、大まかに「厳しい不況により不遇な立場に置かれている若者を中心とした人々には同情したい。しかし、今の自分の不幸や不遇をすべて世の中のせいだとする向きは、甘えと断じざるを得ない」といったものだった。
筆者も数年にわたり、発達障害などの背景とともにニートやひきこもり現象の取材や付随する教育や労働問題に関係してきた立場だが、率直に言って横田氏は良く言ったと感心したものである。
横田氏も、先の寄稿の中で冗談めかして述べてもいるが、これは別段、自分たちがフリーランス・自営業という、自らで自らを保障するしかない立場にあって久しいから、その観点から「何を甘ったれているのか」と言っているわけではない。
社会には必ず「弱者」が存在することはまぎれもない事実であり、また例外なく様々なタイミングで様々な人々がいつそう呼ばれる立場になってもおかしくない面は多分にある。ましてや、かつての価値観や神話が音を立てて崩れ去っている昨今「自分だけは大丈夫で、関係ない」などという発想は身を滅ぼすことも明らかである。よって「弱者」たる概念を自らに引き寄せて想像する力とか、不本意ながらそのポジションに当てはまった人々には、最低限の援助なり保証なりが必要であることは言うまでもない。
問題は「不幸に甘える」という、まさにそのニュアンスである。
上に述べた通り、不幸や不遇は誰しも訪れる可能性のあることで、それに対する想像力は必要であるけれども、その当事者が感じる不遇を克服する気があるかということであって、残念ながら「弱者を笠に着る人々」というのが多くいることが本当の弱者を見えにくくする「厄介さ」を孕んでいることは、これもまた指摘するまでもないことであろう。
筆者が取材する中でも、発達障害という自身の特徴を都合の良い時には「個性」と言い、ではその個性とやらを生かして臆せず社会に順応しようとしたら?と問えば、「社会が自分のような障害を理解してくれないし、すぐパニック症状が出るので働けない」とのたまう人々に出会うことが多々ある。
確かに嘘ではないだろう。社会で例えば発達障害についての認識および理解が広汎になっているかといえばそうではないことは明らかである。だからこそ、記者がその存在を知らしめる必要性を感じているのだ。派生するニートやひきこもり問題も然りである。背景や、本人の落ち度だけではない要素の存在は織り込み済みであるし、見聞きして追い込まれるに至るのも無理はないと感じることも実際に多い。
では、いつまでそのせいにして動かないのか?ということである。
ごく単純化すれば、要するに「不幸や世の中のせい、だから自分は悪くない何とかしてくれ」という理屈は「被害意識の押し売り」にすぎず、そこに能動的な概念や行動は伴わない。「行きすぎた被害者面」は、やがて無意識のうちに自分の不幸だけを強調し他への配慮を忘れた言動に走る「消極的加害者」に変質することを肝に銘じておかねばならない。
「派遣村」の湯浅誠氏の活動は敬意を評するものだが、「貧困ビジネス」と揶揄される背景には、「弱者を売り物にして、弱者というポジションに甘えて主体的に動こうとしない」「都合が悪くなると弱者に逃げ込む」といった残念な人々が一定数存在する事実が横たわっているからであり、それらへの指摘もまた率直になされて然るべきである。
と、こうした指摘をするものを「弱者に冷たい保守」などと括る向きも一部にあるが、失笑ものである。公的私的を問わずさまざまな弱者たる状況をサポートする機関の存在を否定するのではなく、それを受ける側がなるべく早く自分の力で歩くべく、その一時的な手助けと捉えているかどうか、つまりは手を借りる経緯や理由を含め、そこに「主体性を伴っているか」という一点の有無に尽きる。
当該問題を追う記者のひとりとして、発達障害や疾患といった背景の実際を紹介しつつ、ニートひきこもり、暴力などの事象や派生する労働や教育の諸問題を世に伝える立場にはあるが、そうしたフィールドに甘え食ってかかる人々の無用な「味方」をするつもりは毛頭ない。あしからず、そこはご了承頂きたい。

その後、異様にバタバタしていて、久しぶりに会見に行ってきましたよ。
しばらく選挙でお互い忙しくなりそうですが、頑張りましょうね。