昨今、ネット世界を中心として、ようやく一般にも「記者会見開放(記者クラブ)問題」という括りで、その弊害が徐々にではあるが周知されるようになってきた。記者クラブ加盟の所謂「マスコミ」が、この問題の本質や弊害を当然のごとく黙殺してきたことで、問題は、この国で半世紀以上にもわたって何ら変わらず横たわっているにもかかわらず、一般に知られるどころか、我々職業メディアの間でも「触れられざるタブー」として消極的に放置されてきたのは、もはや言い古されてきた「史実」といっても過言ではない。
情報業における絶大な特権組織として、政官との癒着やなれ合いにどっぷりと浸かり記者クラブ所属の大マスコミでの勤務しか経験のない記者たちにとって、この世界でも稀な閉鎖排他組織と内外で抱える問題の本質について、正確に把握した上で開放に共鳴することは、本質を踏まえられる「一部少数派」を除けばかなり至難なことのようである。
情報業における絶大な特権組織として、政官との癒着やなれ合いにどっぷりと浸かり記者クラブ所属の大マスコミでの勤務しか経験のない記者たちにとって、この世界でも稀な閉鎖排他組織と内外で抱える問題の本質について、正確に把握した上で開放に共鳴することは、本質を踏まえられる「一部少数派」を除けばかなり至難なことのようである。
昨今、組織に属す同業の記者たちとこの問題について議論することは多々あるが、若手中堅を中心に「記者クラブは開放すべき」との認識を示す者は少なくない。
しかし、こと本質に踏み込んで「会見の主催権は、欧米含めて多くの国では権力側が持っていて、記者クラブといった組織が握っている所などない」などという、まさに問題の本質が潜む「入り口」のところで、本人たちは無意識なのか「馬脚を現す」残念なやり取りに遭遇することは少なくない。
次の発言は、懇意にしてきた同年代から年上の記者たちが直接筆者に述べたものである。
「主催権は、あくまで報道(記者クラブ)側にあるべき。だって、権力側に渡してしまうと、出席メディアの選別や会見を開く開かないについても恣意的に操作できるんだよ?あくまで、主催は改革開放後の記者クラブが握るべき」
先に紹介した通り、この発言は開放そのものには嘘偽りなく共鳴している各社の若手中堅記者たちのものである。勿論、彼らの開放共鳴をこちらに合わせた「意図的なポーズ」などと悪意に解釈するつもりはない。むしろ、これらは、彼らが育ったカルチャーからすれば、ごくごく「素直な本音」だろう。
例えば、親のある人にとって生まれた時からその存在が疑いようもないのと同じく、記者クラブ所属組織に入り長らく続くこの体制を前提として記者活動を続けてきた者にとって、既存の記者クラブという「お膳立て」がない取材手法や権力とのありようを想像するのは大変に至難なことなのである。これは、無理もないことなのだ。
一見すると「正論」である。
しかし、仮に権力側が出席メディアを選別したとして、同業者が同業者を選別する現状の不可解極まりない慣習ほど始末に悪いだろうか?
仮に権力側がそのようなことを行えば、そうされた各メディアが、自身の媒体で吠えれば良いだけのことである。不当な差別を受けて正当な取材が妨げられていることを遠慮なく報じれば良いだけのことなのだ。
会見の実施についても同様だろう。もし都合の悪い場合に会見を拒否するようなことがあれば、メディアはそれを徹底的に批判追及すれば良い。それだけのことである。
挙句、金融庁で省庁の会見の主催権を握る記者クラブが開放を拒絶するために、わざわざ当該大臣が非所属メディア向けに大臣室で会見を別に開いている件に関しても、主催権を記者クラブが離さないことで省庁の長である大臣にそんなことをさせているという事の本質は認識できず、代わりに「亀井氏は、その大臣室の会見でも自分のことを書いてくれるメディアしか入れない。あまり書かなかった週刊誌記者が締め出されたらしい」と言ってみたり、大臣があるジャーナリストに省庁の会見が開放されていないことを聞かされ驚き息巻いたことにも「長年政治家をやってきた亀井氏が会見が開放されていないことを知らないはずはないだろう」と指摘してみたり、そこにある問題の本質とはかけ離れた、すり替えと言わざるを得ない「わき道」に逸れていってしまうのである。
どちらの話も、果たして記者クラブ開放という大きな命題を前にあげつらう問題だろうか?
前者に関しては、仮に亀井氏が自分のことを書かない記者を締め出したというのが事実なら当該記者は本誌でそれを堂々と書き糾弾すれば良いだけである。後者も同様で、要は、それこそが権力の監視や緊張関係を保つメディアの存在意義だという認識がなく、その思考に、やはり記者クラブ体制への無自覚・無意識な依存が透けて見えるのは気のせいだろうか。
これらは、ごくごく一部のエピソードであり同様の話は枚挙に暇がない。勿論、記者クラブ所属の記者にも問題の本質を的確に把握しつつ、自身も実感で物を言える「本物」の開放論者は少数派ながら存在する。社内やクラブの手前、大っぴらに声を上げられないものの、自らの仕事のしやすさや健全なメディアの姿を真摯に求めてひそかに開放を願っている者がいることも知っている。
しかしながら、先の通り昨今さかんに叫ばれている記者クラブ開放について、自身も属す旧態依然な既存大手メディアへの反乱の意味も込めて「トレンド」くらいの認識でいる「似非開放論者」か否かの見極めが案外容易であることを、不本意ながら思い知る羽目になったのである。そうした人々は「入り口」の議論がかみ合わなかっただけで、へそを曲げて離れていく。図らずもエリート記者のプライドを踏みにじってしまったようである。
表層的な親しみやすさの裏に隠し持つ「気位の高さ」を見たようで、何とも残念でならない。
記者クラブ・記者会見開放問題は、やはりプロの職業記者たちが、その立場だからこそできる報道や権力との真っ当な緊張関係を担保した上で、世間一般への情報開示という本分を果たす際に避けて通れない事項だから問題視しているのであって、それ自体「目的」でも何でもない。市民記者や一般の人々の関心が高まることは、「援護射撃」としては大いに心強いことではあるが、あくまで組織・フリーを問わず職業記者たちの泥臭い実情を知らず、机上論だけでは到底打破できない困難さが横たわっているのも一方の事実である。「餅は餅屋」ではないが、最後の落とし前は生業とする者たちがつけなければあまりにお粗末である。
無頼を気取るつもりはないが、記者クラブ開放をめぐる不本意な攻防は、記者としての職域を確保し、本来は健全なカオスでなければならない多様な報道が行われるための「屋上屋を架す」不毛な闘いであることを最後に申し添えておきたい。
しかし、こと本質に踏み込んで「会見の主催権は、欧米含めて多くの国では権力側が持っていて、記者クラブといった組織が握っている所などない」などという、まさに問題の本質が潜む「入り口」のところで、本人たちは無意識なのか「馬脚を現す」残念なやり取りに遭遇することは少なくない。
次の発言は、懇意にしてきた同年代から年上の記者たちが直接筆者に述べたものである。
「主催権は、あくまで報道(記者クラブ)側にあるべき。だって、権力側に渡してしまうと、出席メディアの選別や会見を開く開かないについても恣意的に操作できるんだよ?あくまで、主催は改革開放後の記者クラブが握るべき」
先に紹介した通り、この発言は開放そのものには嘘偽りなく共鳴している各社の若手中堅記者たちのものである。勿論、彼らの開放共鳴をこちらに合わせた「意図的なポーズ」などと悪意に解釈するつもりはない。むしろ、これらは、彼らが育ったカルチャーからすれば、ごくごく「素直な本音」だろう。
例えば、親のある人にとって生まれた時からその存在が疑いようもないのと同じく、記者クラブ所属組織に入り長らく続くこの体制を前提として記者活動を続けてきた者にとって、既存の記者クラブという「お膳立て」がない取材手法や権力とのありようを想像するのは大変に至難なことなのである。これは、無理もないことなのだ。
一見すると「正論」である。
しかし、仮に権力側が出席メディアを選別したとして、同業者が同業者を選別する現状の不可解極まりない慣習ほど始末に悪いだろうか?
仮に権力側がそのようなことを行えば、そうされた各メディアが、自身の媒体で吠えれば良いだけのことである。不当な差別を受けて正当な取材が妨げられていることを遠慮なく報じれば良いだけのことなのだ。
会見の実施についても同様だろう。もし都合の悪い場合に会見を拒否するようなことがあれば、メディアはそれを徹底的に批判追及すれば良い。それだけのことである。
挙句、金融庁で省庁の会見の主催権を握る記者クラブが開放を拒絶するために、わざわざ当該大臣が非所属メディア向けに大臣室で会見を別に開いている件に関しても、主催権を記者クラブが離さないことで省庁の長である大臣にそんなことをさせているという事の本質は認識できず、代わりに「亀井氏は、その大臣室の会見でも自分のことを書いてくれるメディアしか入れない。あまり書かなかった週刊誌記者が締め出されたらしい」と言ってみたり、大臣があるジャーナリストに省庁の会見が開放されていないことを聞かされ驚き息巻いたことにも「長年政治家をやってきた亀井氏が会見が開放されていないことを知らないはずはないだろう」と指摘してみたり、そこにある問題の本質とはかけ離れた、すり替えと言わざるを得ない「わき道」に逸れていってしまうのである。
どちらの話も、果たして記者クラブ開放という大きな命題を前にあげつらう問題だろうか?
前者に関しては、仮に亀井氏が自分のことを書かない記者を締め出したというのが事実なら当該記者は本誌でそれを堂々と書き糾弾すれば良いだけである。後者も同様で、要は、それこそが権力の監視や緊張関係を保つメディアの存在意義だという認識がなく、その思考に、やはり記者クラブ体制への無自覚・無意識な依存が透けて見えるのは気のせいだろうか。
これらは、ごくごく一部のエピソードであり同様の話は枚挙に暇がない。勿論、記者クラブ所属の記者にも問題の本質を的確に把握しつつ、自身も実感で物を言える「本物」の開放論者は少数派ながら存在する。社内やクラブの手前、大っぴらに声を上げられないものの、自らの仕事のしやすさや健全なメディアの姿を真摯に求めてひそかに開放を願っている者がいることも知っている。
しかしながら、先の通り昨今さかんに叫ばれている記者クラブ開放について、自身も属す旧態依然な既存大手メディアへの反乱の意味も込めて「トレンド」くらいの認識でいる「似非開放論者」か否かの見極めが案外容易であることを、不本意ながら思い知る羽目になったのである。そうした人々は「入り口」の議論がかみ合わなかっただけで、へそを曲げて離れていく。図らずもエリート記者のプライドを踏みにじってしまったようである。
表層的な親しみやすさの裏に隠し持つ「気位の高さ」を見たようで、何とも残念でならない。
記者クラブ・記者会見開放問題は、やはりプロの職業記者たちが、その立場だからこそできる報道や権力との真っ当な緊張関係を担保した上で、世間一般への情報開示という本分を果たす際に避けて通れない事項だから問題視しているのであって、それ自体「目的」でも何でもない。市民記者や一般の人々の関心が高まることは、「援護射撃」としては大いに心強いことではあるが、あくまで組織・フリーを問わず職業記者たちの泥臭い実情を知らず、机上論だけでは到底打破できない困難さが横たわっているのも一方の事実である。「餅は餅屋」ではないが、最後の落とし前は生業とする者たちがつけなければあまりにお粗末である。
無頼を気取るつもりはないが、記者クラブ開放をめぐる不本意な攻防は、記者としての職域を確保し、本来は健全なカオスでなければならない多様な報道が行われるための「屋上屋を架す」不毛な闘いであることを最後に申し添えておきたい。
